今では大親友の北本町。
初めて言葉を交わしたきっかけは、"奇しくも"お互いが同じ型のカメラを愛用していたということ。
やはり大親友で頼れる姉のゆっこさん。
彼女とはそもそも母親同士が学友だったということもあるが−
私たち自身のお付き合いが始まったのは、僕が引っ越しの折りあぶれさせた家具を、その時"たまたま"隣町に引っ越してきたゆっこさん夫婦が引き取ってくれたことに端を発する。
ダンサーFusakoちゃんもかけがえのない友で−
出張先の名古屋で急遽立つことになった舞台、共演者の彼女と自己紹介を交わすうちに−
つい先日、東京で僕が出演した舞台を、僕の出演など知らずに(当たり前のことだが)"偶然"見ていた。
それが、仲良くなるきっかけだった。
信仰対象とも呼べるほど大好きなFとの出会いは―
まさに「嘘のような」出会いだった。
あまりに「嘘のような」ので、きっと誰も信じてくれない。
ここでは話すのはやめる。
もちろん、大切な人たちのすべてにこのような「奇縁歎」−"奇しくも"や"たまたま"や"偶然"−がそなわっているというわけではない。
ただ、上に登場させた友人たちとの間には、それこそ"たまたま"エピソードになりやすい目に見える形で、それら「奇縁」が表れたというだけのことなのだ。
なぜと言えば、僕の愛する人すべてが、記憶を細かくたぐってゆきさえすればその根っこに、腰を抜かしてしまうような「奇縁」を、それぞれ確かに持っているはずだもの。
そう考えると「縁」というもの自体、そもそも「奇」なのである。
「奇縁」でない「縁」など探す方が難しいのかもしれない。
ただその「縁」のかたちがユニークであればあるほど、知り合ってのちに出会いのエピソードが話題にのぼるたび、お互いがお互いの存在に感謝しやすいわけだ。
めでたい仕組みではある。
そういうふうにできている。
神はお茶目だ。
さて−
近頃、気になってしかたがない後輩。
喋ったことなどほとんどないのに。
ふしぎと他人な気がせずどうにも放っておけない。
それで−
昨夜知って笑ってしまった。
その子の誕生日。
愛する僕の祖母や母のそれと、同じ日付だったりするのだもの。
なるほど、他人な気がしないわけだが―
神よ、茶目っけもゆきすぎれば不気味です。
人はこういう目に見えやすい「縁」を、「奇蹟だ」「運命だ」と祭り、御幣にして振り回し、かえってその祭神に振り回され、幸せにもなれば不仕合わせにもなる。
祭るべきか祭らぬべきか、それが問題だ。
−と、
そういう思案より先に、自分は幼い時分から、笛や太鼓の音を聞いたがさいご、すべてを放って道へ飛び出してしまうほどの祭り好きだった。
そんな動かしようのない事実を、ついと忘れていた。
【浜野基彦】
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