冬休みに、ふるさと福岡へ帰ります。
ふるさとであっても、いや、そこがふるさとだからなおのこと、土地の歴史の勉強は怠れません。
今は散歩をするために古地図をさらってます。
東京・名古屋・金沢では古地図を片手に歴史散歩を楽しんだのですが、福岡ではまだやったことがないのでした。 http://hamdavis.blogspot.com/2007/05/blog-post_1786.html
周りに言わせると、ずいぶん年寄り臭い趣味だそうですが、これが楽しくて―やめられません。
【浜野基彦】
こんにちは浜野基彦です。 写真はつつけば大きくなります。
冬休みに、ふるさと福岡へ帰ります。
ふるさとであっても、いや、そこがふるさとだからなおのこと、土地の歴史の勉強は怠れません。
今は散歩をするために古地図をさらってます。
東京・名古屋・金沢では古地図を片手に歴史散歩を楽しんだのですが、福岡ではまだやったことがないのでした。 http://hamdavis.blogspot.com/2007/05/blog-post_1786.html
周りに言わせると、ずいぶん年寄り臭い趣味だそうですが、これが楽しくて―やめられません。
【浜野基彦】
2 件のコメント:
おひさで~す。
福岡の歴史について、黒田藩の前はどんなだったのかと詳しい友達に尋ねたら、武士はいなかったと言われました。
福岡の人にとって黒田武士ってどういうイメージなんでしょうね。長い歴史の中でちょっとやってきて去ってしまった人々なのでしょうか。
⇒kayさん
こんにちは。
書き込みをありがとうございます。
もともと博多は商人の町ですね。
福岡という名からして、戦国末期にやって来た黒田家がつけたものですから。
しかし黒田が来る前にも、名島には小早川家というのが城を築いておりました。
おりましたが、小早川の時代も黒田の時代も、有史以前から貿易港を営んできた博多商人のエネルギーやプライドはすさまじかったようです。
黒田家にとって博多商人は敵にするには恐ろしい、頭の上がらない存在だったのではないでしょうか。
いまではピンときませんが、福岡の町というのは、そのものが大きな石垣で囲われた巨大城郭でした。
その石垣を隔てた東に博多の町がすわっていたわけです。
石垣には大きな関門がありまして、武士と町人のお互いの行き来も、そう頻繁にはなかったようです。
つまり隣同士の別世界。
しかしその中にも、武士と町人の階級を超えた友情のようなものは多々あったようで、今でも福岡の美談として語り伝えられているものもあります。
対立したことも幾度かはあったようですが、武士対商人の血なまぐさい抗争などはほとんど起こらなかったようですね。
黒田武士と博多町人。
思いのほか、お互いが支え合って歴史を営んできたのではないでしょうか?
そうでなければ、黒田家が豊臣系外様大名であるにもかかわらず、五二万石を保ったまま、長い江戸時代を切り抜けられたとは思えません。
―長くなりまして、ごめんなさい。
しかし良質のテーマをいただき、ありがとうございました。
また郷土史に対しての愛情がわきました。
正月の福岡、黒田武士や博多町人それぞれの気持ちになり、感覚を確かめながら、町歩きをしてみようかと思います。
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